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WBC優勝戦と正岡子規

WBC(09 WORLD BASEBALL CLASSIC)優勝戦を最後まで見てしまいました。ダルビッシュ(日本ハム)が同点にされた9回などとても見ておれず、干してあるふとんをしまいに2階に。戻ると日本の攻撃に代わっており、サヨナラ負けはなかったのだと一安心。そしてイチローの決勝打。 韓国もよく健闘、見ごたえのある試合だったなと、その昔野球少年であった店主は思いました。両チームに拍手。

 

 それにしてもなぜ「侍JAPAN」なのか。「原JAPAN」でよかったのではないかと今更なことを思いつつ、仕事(書籍登録作業)に入るのでした。

 

 野球といえば、たまたま、22日と23日の二日間四国へ旅行。松山・道後温泉。翌日は内子町、大洲市へ1泊2日の駆け足の旅をしてきました。

 

その旅の中で、正岡子規と文学仲間であった正宗寺住職仏海禅師が子規の業績を記念し、子規が17歳で上京するまで過ごした住居を寺の中に残したのだという市内の「子規堂」を訪れました。

 

そこに「子規と野球の碑」があり、次のように子規と野球とのかかわりが記してありました。

 

『 正岡子規は、わが国野球の草創期に選手

  として活躍、明治20年代はじめて

  松山の地にこれを伝えた 最も早くベ

  ースボールの技術、規則を訳述解説し、

  その妙味を強調してひろく世に推称

  「野球」の名付け親と称される また

  短歌、俳句、小説など文学の題材に

  初めてこれをとり入れた 実に子規は

  わが球界の先駆者で在り普及振興

  の功労者である

 

  打ちはづす球キャッチャーの手に在りて

      ベースを人の行きがてにする

 

  今やかの三っのベースに人満ちて

      そゞろに胸の打ち騒ぐかな

  (明治31年ベースボール九首のうち) 』

 

<子規は日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり、明治22年(1889年)に喀血してやめるまでやっていた。ポジションは捕手であった。自身の幼名である「升(のぼる)」にちなんで、「野球(のぼーる)」という雅号を用いたこともある(ただしベースボールを野球(やきゅう)と訳したのはこれより後、中馬庚(ちゅうまん・かなえ)が始めである。>

<なお、正岡子規が「野球(のぼーる)」という雅号を用いたのは中馬庚が「ベースボール」を「野球」と翻訳する4年前の1890年である。つまり、「ベースボール」を「野球」と最初に翻訳したのは中馬庚であるが、読み方は異なるが「野球」という表記を最初に行い、さらに「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮(中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名)」と日本語に訳したのは正岡子規である。>(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 

 野球に関係のある句や歌を詠み、文学を通じて野球の普及に貢献し、そのことが評価され正岡子規は平成14年(2002年)、野球殿堂入りしている。

 

 今回のWBCの日本チームの優勝を子規はどのように聞いているのでしょうか。

 

≪正岡子規、本名正岡常規(つねのり)。松山市生まれ「慶応3年(1867)-明治35年(1902)」≫