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映画「華氏451」

一昨日、昼食を済ませ、午後の仕事にとりかかる前に、何気なくテレビ欄を見たらNHKBSで「華氏451」とある。学生のときに見たいと思っていたが「見逃した」映画です。

 

 監督はフランソワ・トリュフォー(原作はレイ・ブラッドベリのSF小説『華氏451度』)1966年制作。日本での公開は1967年。

映画の冒頭タイトルやクレジットは一切表示されず、ナレーションによって説明される。(文字を排除する世界を暗示!?)

 映画は、まず消防隊(?)の車が出動する。ある家の中で本の探索・発見そして火炎放射器による本の焼却。本の持ち主の逮捕。消防士の役割は、消火活動ではなく「本を燃やす」のである。ナチス・ドイツによる焚書の光景を想い起させる場面だ。

 

 映画に出てくる登場人物は、喜怒哀楽がなくほとんど無表情だ。あらゆる情報・知識はテレビにより伝達され、その意のままに暮らすことがすなわち平和な生活ができると思われる世界である。

「本」、特に小説は、人々の喜怒哀楽の感情を揺り動かす、そして読むことは、記憶・記録する行為となる。

「感情」「記憶」を人々が持つことを恐れる権力。「感情」「記憶」を抹殺するシステムを持つ社会が描かれる。「本」はその第一の標的。所有し、読む行為そのものを禁じ、犯罪とする世界。

 

 本を「あきらめない人々」は森の中で、「本の人々」と呼ばれる人間の国を作る。一人ひとりがそれぞれ1冊の本を丸ごと暗記・記憶し、各人が『高慢と偏見』、『君主論』、『プラトンの国家』、『サルトルのユダヤ人』などの書名を自分の名前にすることになる国だ。そして本の内容を記憶したら本を焼却し、死が近づくときには他者へ口承する。

 

 主人公(消防士のモンターグ)はある日、近くに住む若い女性クラリスに「本」の魅力を教えられ、本の世界に引き込まれるが、妻に密告され、自分の本を燃やされるとき、上司を殺して逃亡。そして「本の人々」の国へ。本を読む自由を得たモンターグはエドガー・アランポーの暗唱を始める。

 

 題名の「華氏451」は「紙が自然発火する温度」だそうだ。消防隊の建物、消防士の制服には451の数字が付けられている。(ちなみに華氏451度は摂氏約232.8度になる。日本社会では「華氏」は使わないですね。)

 

 1966年につくられた映画であるので、その時点では、オルダス・ハックスレーの「素晴らしき新世界」、ジョージ・オーウェル「1984年」を思わせる、近未来の管理社会・監視社会を見据えた映画であったのだなと思いました。

 

「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」という二重語法(矛盾した二つのことを同時に言い表す表現)がオーウェル『1984年』には出てきたが、いま1984年を遥かに過ぎて、つい数年前には「自衛隊員のいるところが非戦闘地域だ」などの言い方がまかりとおっている国で、管理されていることに自覚のないままに、思考を停止し、知らず知らずに「管理社会」に身をゆだねてしまってはいまいかと注意を喚起されたような気がしました。

 

「本のない国」にはしないぞと珍しく力が入った店主でした。

 

 一昨日発売された、創刊50年復活「朝日ジャーナル」(週刊朝日緊急増刊)の表紙には

  『 崩壊寸前の「日本型社会システム」 

   いま問われているのは、私たちの「知性」そして「感性」―』

とありました。