午後ラジオを聞いていたら、今年は、「横浜開港150周年」にあたり、記念のイベント(開国博Y150)が明日から行われるという。
生まれてから二十歳まで横浜で暮らしていました。わが故郷なのです。
確か、横浜開港の日は6月2日で、市立の小中高の学校は休日だった。(今も学校は休みなのかどうか。)
小学校5年生の時に「横浜開港100周年」を迎えていたと思う。思いだすのはこうした記念行事・学校行事のときには必ず「横浜市歌」というのを歌った。頭の中、体の隅々までこの歌は浸透し、血となり肉となっている?のではと思う。愛唱歌でもある。
入学した小学校(現在)のホームページを見てみると
『地域は、鶴見川の下流に広がり、主に住宅街や商店街や町工場で構成されている。大正15年(1926年)に創立され、京浜工業地帯の発展にともない地域の人口が増え、その結果児童数は昭和31年(1956年)には2807名となり、マンモス学校と呼ばれた。』
とある。そう、確かに本当に子どもの数が多く、朝礼などのときは校庭からあふれんばかりに、ぎっしり詰まった感じでした。
入学時、1年のクラスが14クラスあり、教室が足りず午前と午後に分かれて2部授業をやっていた。先生の数も100人は超えていたのでは。
そして3年の2学期に分校に移り、翌年その分校が独立!して新しい小学校として出発した。新しい学校には校歌はなく、学校行事のときは、「横浜市歌」をうたうことに。
中学校も同様1年の途中で、分校から独立の中学校で第2期生、校歌はまだできておらず、高校も新設の市立高校第2期生で校歌はなし。(ちなみに校舎も建築中で、半年間、定時制高校の校舎を借りて授業を受けていた。東京オリンピックの年でした。)
それで「横浜市歌」である。
『横浜市歌』 作詞:森林太郎(森鴎外) 作曲:南能衛
♪♪
わが日の本は島國よ 朝日輝ふ海に
連り峙つ島々なれば あらゆる國より舟こそ通へ
されば港の数多かれど 此横浜に優るあらめや
むかし思へば苫屋の烟 ちらりほらりと立てりし處
今は百舟百千舟 泊る處ぞ見よや
果なく榮えて行くらん御代を 飾る寶も入り來る港
当時、歌詞を文字で読んだ記憶がなく、歌を聞きながら耳でおぼえたような気がする。それで歌詞の意味もわからず歌っていたようだ。
たとえば
「わが日の本は島國よ」とあるが、横浜市の歌なのだから「わが市の元は島国よ」と思って歌っていた。
「果なく榮えて行くらん御代を」のところは「はてなくさかえて行くらん見よ」と。
(最近まで思っていた。)
作詞が、文豪・森林太郎(鷗外)であったことはまったく知らずに、2年ほど前にようやく知りました。
1909年(明治42年)7月1日「開港五十年記念大祝賀会式典」の席で初めて披露されたとのこと。作曲は東京音楽学校(現在・東京芸大)教師・南能衛。
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(前奏)
タン タタ タタタタ タンタンタン
わが市の元は島国よ 朝日輝ふ海に
連なり・・・・・・
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やはり「わが市の元は」と歌い、開港記念日には横浜へ行こうと思う店主でした。