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密使・若泉敬 再び沖縄返還とは?

2010年6月19日夜、サッカーのワールドカップで多くの人が日本対オランダ戦を観戦している時間帯に、NHKスペシャル(午後9:00~10:00)「密使・若泉敬 沖縄返還の代償」が放送された。

 

若泉敬氏の生涯を通して、いま日米間の最大の懸案となっている、“沖縄問題”の深層を描きだす内容のドキュメントでした。

 

 1972年5月15日「核抜き・本土並み」で「返還」された沖縄。その裏で「有事の核再持ち込み」を認める「密約」が日米首脳の間で取り交わされていた。それは、ニクソン大統領と佐藤栄作首相、そしてキッシンジャー大統領補佐官と若泉敬の4人の取り交わした「秘密合意議事録」。

昨年(2009年)、その「秘密合意議事録」の存在が明らかになった。それは故佐藤栄作元首相の遺品の中から出てきたという。(不思議なことに亡くなってから30年以上も経っている!)

 

核の再持ち込みに応じなければ「返還」そのものができない。「核抜き」では戻らない現実。

 その交渉の際、「密約は返還のための代償だ」として佐藤首相に進言、説得し、密約の草案を作成したのが、首相の密使、若泉敬・京都産業大学教授だった。 佐藤首相から請われ、米国留学を通じて得た知己、人脈にあたり、「密約」をまとめ、返還実現に向けて突っ走った若泉敬氏。だが、米側のしたたかさは見抜けなかった。

 

復帰20年目、若泉氏は沖縄復帰の検証会議に出席し、友人かつ交渉相手のモートン・ハルペリンが作成し、その時公開されたNSDM(国家安全保障決定覚書)13号文書を知り、愕然とする。

 

1969年5月28日の時点でNSDM13号にはアメリカの基本戦略があり「核兵器撤去を用意」している内容であった。1969年11月6日に佐藤首相から密約交渉を任された時には、すでに「アメリカは沖縄には核配備の必要はなかった」にも関わらず、核撤去を明かさず、「交渉カードとしての核撤去」を出してきたことを日本政府も若泉氏も知らなかったのであった。軍事行動のための基地の自由使用を日本に認めさせることこそがアメリカの交渉戦略だったのである。米側のしたたかさを見抜けなかった。

 

機密資料と新証言から浮かび上がるのは、沖縄返還の代償として結んだ密約が、結果として基地の固定化・自由使用につながったことに苦悩し、沖縄県民に対する自責の念に押しつぶされる若泉の姿だった

秘密交渉を暴露する著作『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(1994年)を出版するが、政府、官僚、学者の皆が逃げ、「無視黙殺」であった。国会招致もなかった。

 

1996年若泉敬氏は自死を選ぶ。

今もなお解決できない沖縄問題の根源には、若泉氏が背負い続けた十字架がある。

 

6月23日は「沖縄慰霊の日」。

『糸満市摩文仁の平和祈念公園で営まれた沖縄全戦没者追悼式のあいさつで、菅直人首相は「米軍基地が集中し、大きな負担をお願いしていることに全国民を代表しておわびする」と陳謝。沖縄の負担がアジア太平洋地域の平和と安定につながったと指摘し、謝意を示した上で「基地負担の軽減と危険性除去に一層真剣に取り組む」と強調した。』(沖縄タイムス6月23日)

 

改めて「沖縄返還とは何だったのか」。若泉敬氏は沖縄戦没者慰霊碑の前に座り「本当に日本に復帰してよかったんでしょうか」と問いかけていたという。

 

奇しくも6月23日は日米安保条約発効50年目にあたります。対米依存、対米対等、アメリカの持つ抑止力、アメリカの影などいろいろ論議されている。

「基地負担の軽減と危険性除去に一層真剣に取り組む」(菅首相)のはもちろんですが、「沖縄返還交渉」で望むものすべてを手に入れたといわれる「アメリカの外交的勝利」という結果になった「沖縄の施政権返還」(沖縄の日本復帰)を「日本の外交的敗北」(密約も含め。)として検証し、今後の国家戦略として沖縄の米軍基地、沖縄の人びとの生活を考えることが必要と思うのです。

それは長い道のりだと思いますが、今こそ、ぜひ考え、行うことが求められていると思います。