· 

古本屋 大塚弁護士 松川裁判

暑さがまだ厳しい日中ですが、朝夕は虫の音も聞こえ、秋だなと思わせる季節になりました。

 

2年半ほど前にAzuki堂開店のお知らせを知人、友人あてに、送りました。

おそらくハガキを手にされてすぐに電話をかけられたと思われます。

電話のベルが鳴り、受話器をとると名前も言われずに「お宅は何処にあるの、目印は何、4丁目のどのあたり」と、どこか聞き覚えのある声「はい、□□通りの○○の踏切の近くです」「新しくできた古本屋どこにあるの、行きたいんだけど」「すみませんお店を構えていないんです。自宅の2階で、インターネット販売だけなんです。」「何だそうか」とがっかりしたように言われ、「申し訳ありません。大塚先生ですね。ありがとうございます。」「ハガキを貰ったんだが」「店はないのです。本当にすみません。」と電話は終わりました。

 

大塚弁護士夫妻宛にも開店の案内をさせていただきました。

数日後、奥様からやさしく「すみませんね。インターネットとかわからないんですよ。古本屋が好きで、近くにできたと思い、行くつもりにしていたんですよ」「いえいえ、私の方こそ、案内が不十分な書き方で、先生によろしくお伝えください。」

 

20数年前に、娘の通う「学童保育」の問題をめぐり、市長選挙の運動に関わった時に奥様の知己を得、その後地域での関わりを続けていく中で、大塚一男弁護士がご主人であることを知ることとなります。

 そんな経緯のなかで、1989年に著書「私記 松川事件弁護団史」(日本評論社)を奥様を通じて、いただきました。地域で「私記 松川事件弁護団史」出版記念の会があり、会の企画者から比較的若い層を代表して、本を読んだ感想を述べよと要請があり、必死でメモをとりながら、当時は8~9文字しかないディスプレイの「オアシスワープロ」に打ち込んだことを思い出します。

 1949(昭和24)年に起きた松川事件のことは、前年(昭和23年)に生まれた者にとっては、小学生時代に「松川事件」判決などを新聞で「バール」「アリバイ」「自白」などの言葉をおぼろげに覚えているぐらいで、事件については学生時代に戦後史を学んだときにようやく把握できた程度であります。

 

<60年代から70年代にかけての時代状況の中で「松川事件」はあまり論議されていなかったのではないだろうか。1963年9月12日の最高裁で検事上告を棄却・無罪判決が確定したのちであってみれば、あまり話題にならなくなっていたように思えます。>

 

「弁護団史」の感想では、松川裁判に文字どおり「全力」を注いだ廣津和郎の「散文精神」

―「それはどんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通していく精神――それが散文精神だと思います。」を知り、「弁護団活動をかえりみて」「弁護団の原則的方針」「歴史の教訓」「運動発展の条件」などの文章から貴重な14年間の松川弁護活動の総括を勉強させていただきました。

大勢の人びとが関わる際の組織の在り方、運動の進め方など改めて学ぶことができたように思えました

 

歴史的にも大変重要な役割を果たされた大塚一男主任弁護人の著作を浅学非才なものが感想を述べるという、冷や汗ものの機会でした。

 

9月4日、朝日新聞では次のように伝えました。

「大塚一男さん(おおつか・かずお=弁護士、松川事件主任弁護人)3日、肺がんで死去、86歳。 (中略) 喪主は妻ます子さん。

 1949年8月、旧国鉄・東北線で起きた列車転覆をめぐって、労組幹部ら20名が逮捕・起訴された松川事件で、63年の最高裁判決で全員の無罪が確定するまで、弁護団の中軸として活動した。」

 

「松川裁判から、いま何を学ぶか―戦後最大の冤罪事件の全容」(福島大学名誉教授・伊部正之 著・岩波書店・2009年)に「主任弁護人であった大塚一男弁護士の一連の著作『私記 松川事件弁護団史』(1989年)『最高裁調査官報告書』(1986年)『松川弁護十四年』(1984年)等は、松川裁判と刑事弁護に関する貴重な総括と問題提起を行っており、松川裁判研究の必読書である。」と画期的な意義をもつ文献として紹介されています。

 

6日の通夜は、好きだったという映画「阿弥陀堂だより」(故郷の飯山が舞台)の音楽が静かに流れる中、業績をたたえ、人柄をしのぶ、後輩の弁護士さんが弔辞を述べ、ひまわり(弁護士バッジのモデルだそうです)を献花してお別れしました。 合掌